2024.11.30
論文でウェルビーイング!第3回「『十牛図』とウェルビーイング」
1. はじめに
以下は、とある学生が仏教の教え『十牛図』をテーマにした卒業論文で語った内容です。
「過去を抱えた流れの中で、ただ、いまを生きることこそ、自己を生きること、すなわち、『真の自己』そのものに変わりはないのではないだろうか。
『真の自己』とは、自己が自己と向き合う中で生み出された問いであり、それに向かい生きる時期(過程)こそを指す。
人は『真の自己』を求め、旅に出るが、明確なあるべき姿などないのだから、それは無意味な旅なのかもしれない。
しかし、何も得られずとも、そのとき懸命に生きたその過程にこそ大きな意味があり、その過程を通して、自己としての『実感』を獲得していくのではないか。」(井上ほか,2014 第3章 塩谷, 2008, P.65)
2.『十牛図』とは?
十牛図は、中国の北宋時代の末、12世紀に廓庵禅師(かくあんぜんじ)によって作られた禅修行のための手引書です(横山,1991;上田,2002)。そのすべてが漢語で書かれているのではなくて、いわば、本文が絵で、頌(じゅ)と呼ばれる短い漢詩が絵の趣旨を説明しています(上田,2002)。仏教の思想展開の一つとして絵解きの方法で広く世間にひろめられたとも言われています(徳力,1985)。テーマは「自己追求」または「己事究明」つまり、自己の大事の究明(秋月,1989,p.4))で、登場するのは、牛と牧人(ぼくじん、牛飼いのこと)ですが、牛は見失った真の自己を、牧人は、その真の自己を追い求める自己をそれぞれ例えています(横山,1991)。秋月は、十牛図では、「牧人が、現実の自我として、そして牛が本来の自己」として描かれていると述べています(秋月,1989,p.96)。10枚の絵にわたって、真の自己を追求する禅者が、禅の実践を通して次第に深まる心境の向上過程が描かれています。
ちなみに、日本に伝えられたのは、鎌倉末期足利初期で、十牛図の教えは、仏教のみならず、「あらゆる修養道、武道、茶道、花道、書道、技芸百般の道にあてはまる」と版画家の徳力富吉郎は語ります(1985,P. 3)。
『十牛図』は、元来禅の師家たちから前者の立場から語られるものであり、詳細の解説は、参考文献を参照いただきたいのですが、私が興味深いと思ったのは、牛を発見した後の、第7図以降です。第7図では、牧人は、結局、探していた真の自己などはなく、自己はもともと自分の中に最初からあり、本来の自己を探していたことさえ忘れます。そして第8図では、何もない「空の円相」のみが出現し、悟りの世界が現れます。第9図では、空を経て、目の前にありありと現れる森羅万象を目の前に、ありのままをありのままに見ることが真実であり、ありのままの世界と一体になるに至ります。そして、最後の第10図では、すべてを悟った後、人間界・俗世間に戻り、酒を飲み、食べ、歌い、笑っている・・・というストーリーです。詳細は本記事の後半に添付しますので、ご参照ください。
【十牛図】
3.「真の自己」を追い求める理由は、「善く生きる」ため
このようなストーリーが繰り広げられる十牛図ですが、そもそも、なぜ禅者は、「真の自己」である牛を追い求めなければいけないのでしょうか?横山(1991)によると、牛がいなければ、「善く生きてゆくことができないからだ」と述べています(p.61)。つまり、本当の自己を追い求める旅路が、善く生きることにつながっているというのです。横山は、この「善く生きる」を、2つに分類し、①環境や社会に適応して巧みに生きることと、②哲学的な意味で、プラトンの『クリトン』のソクラテスの言葉を引用して、「『真・善・美』の価値を自己存在という事実を通して具現化して生きてゆくこと」だと論じています(p.62)。さらに、善く生きるためには、途中の道程がどのようなものかを知り、理解したうえで、道をこのように歩んでいこう、歩んでいくべきだという方針が打ち立てられると主張しています。
「一生涯善良に生きぬこうと思ったら、われわれは何をおいてもまず、自分のなすべき事となすべからざる事とを知らねばならぬ。そしてこれを知ろうと思ったら、自分は一体何であるか、自分の住んでいるこの世界はいかなるものか、ということを理解しなければならぬ」(トルストイ『人生の道』)
横山は、繰り返し、「いかにあるか」(Sein, ザイン: 独語で「存在」)を踏まえたうえで、「いかに生きるか」(Sollen, ゾレン:独語で「当為」)が導かれると述べており、トルストイの言葉を引用して、まずは、自分と世界の解明から手がけねばならない、特に自分という存在の究明から始めることの意義を強調しています。
4.「いかにあるか」を理解し、「いかに生きるか」が、Well-beingにつながる
ここで、「善良に生きる」と聞いて、なにやらWell-beingとの関連がありそうだと思いませんか?そこで私はこう考えました。Well-beingは一般に「良い状態」をさすが、上記の「いかにあるか」(Sein)と「いかに生きるか」(Sollen)に当てはめると、Sein(存在)は、Beingを表している、では、Sollen(当為)は、Doingではないか?Sein-Sollenの関係性におけるWell-beingとは、「Sein(存在)」を基盤にしつつ、「Sollen(当為)」が実現される状態全体を含むのでは?と解釈しました。自己の理解に基づいて、価値ある行動や生き方を具体化する過程においては、ずっと良い状態ではないかもしれません、ですが、長期的な幸福、ユーダイモニア的幸福のように、過去の失敗や苦難が、結果的に、今のWell-beingにつながっていると言える状況もあるのではないでしょうか。
5.『十牛図』に見る日本的なWell-being:自然や社会との調和や共生
とはいえ、単に、「いかにあるか」(Sein)を踏まえた「いかに生きるか」(Sollen)の実現が、Well-beingにつながると結論付けるには、Well-beingが、精神的・身体的・社会的で多面的であることを踏まえると、慎重になる必要があります。さらに、SeinやSollenに基づいたWell-beingの実現モデルは、自己理解や自己実現を重視する西洋的だという指摘も考えられます。そのため、他者とのバランスや調和を重視する日本社会では、例えば、個人の存在、Beingよりも共同体でのDoingが優先されることもあるのかもしれない点は、留意しておきたいです。さらに、日本の文脈を鑑みると、自然環境や他者との調和がSein-SollenにおけるWell-beingにおいて、強調されることも大いにあると考えます。
例えば、『十牛図』の第7図から第10図では、自然と溶け合い、他者とともに生きていくことがテーマになっています。特に、第9図の「返本還源(へんぽんげんげん)」では、「空」や「無」を超えた先に現れる森羅万象に、自然や世界との一体感・調和の感覚を得ます。
「水自茫茫花自紅」 ― 「川は川で果てもなく、花は花で紅く咲うのみ」(上田ほか,1992)
川がただ流れ、花がただ咲くように、すべての物事がありのままに存在し、そのままの姿で調和している。すべての存在が、自分と別物ではなく、同じ「いのちの流れ」にある意識が芽生えるというのです。そして、最終の第10図「入鄽垂手 (にってんすいしゅ)」では、 悟りを得た修行僧は、あえて山にこもらず、町に出て、社会や他者と関わります。自分だけが澄み切った状態になればよいのではなく、現実で、他者とともにともに楽しみ、悲しむ。最後に、慈しみ、利他の心をもって、人と関わりあっています。
このように、日本的なWell-beingの特徴を踏まえた場合、『十牛図』に見られるSein – SollenにおけるWell-beingとは、単なる自己完結型ではなく、自然や社会との調和や共生に重点をおいていると言えるかもしれません。『十牛図』は中国伝来なので、日本の文脈に応用できるのかというご批判もあるかもしれませんが、中国大陸からの禅宗や道教が日本のWell-beingに与えた影響は少なからずあり、ブログ記事(第1回の太極図を参照)でもその関連について以前述べさせていただきました。今回は、『十牛図』を足がかりに、日本的なWell-beingについて再考してみましたが、日本の文脈に即した、さらなる論の展開の余地がありそうです。
6.さいごに
今回は、『十牛図』において、まず、「いかに生きるか」「いかに善く生きるか」という問いが、「真の自己」の探求への旅へと牧人を誘っている可能性に着目しました。そののち、『十牛図』での旅が、どのように日本的なWell-beingと関連しているのかについて述べてきました。今回の記事が、新たな角度からWell-beingについて理解するきっかけになればと思います。『十牛図』が示したのは、「完全な自己」や「真の自己」を見つけることではなく、その過程を受け容れ、迷いの中でも一歩一歩進むこと、そして、「あるがまま」を目の前にしたとき、「あるがままでいい」と思える感覚の大切さなのではないでしょうか。旅の途中での出会い、気づき、感謝、そして様々な挑戦と失敗が、私たちの人生を豊かにしていくのでしょう。
一般社団法人 ウェルビーイングデザイン
宮地 眞子
十牛図のストーリー
幸福の四因子(前野,2013):「やってみよう」「ありがとう」「なんとかなる」「あなたらしく」の要素も、十牛図の旅に呼応することから、以下では、十牛図の各段階と、ウェルビーイングとの関連を説明しています。
『十牛図』:自己とは何かの追求の旅
第1~3図:「迷いから気づきへ」
第1図「尋牛(じんぎゅう)」
自己(牛)を見失い、自己探求の旅に迷い込みます。ここでは、短絡的な快感や快楽を求めるへドニア的幸福感ばかりを求めます。しかし、ここで修行者は、自己を探してみよう、とにかく「やってみよう」と個人的成長・自己実現を目指す旅の入口に立っています。
第2図「見跡(けんせき)」
語録や教典を読むことで先人たちの知恵を学び、自己探求が深化します。先人や他者からの助言・サポートに感謝する「ありがとう」の気持ちは、自己受容をはぐくむ土台となり得ます(高井,2001)。
第3図「見牛(けんぎゅう)」
真の自己の一部を捉える「気づき」の段階です。ここから、内なる自己と向き合うことが始まります。
第4~6図:「自己との調和と受容」
第4図「得牛(とくぎゅう)」
自分をコントロールしようとする実践の段階。絵では修行者が、綱を引き、大格闘していますね。横田老師 (2020)によると、真の自己、つまり「いのち」そのものは、描くことはできず「六根」:眼・耳・鼻・舌・皮膚・意識で感じ、体得することと説かれています。自己に湧き上がる思考や感情を観察しマインドフルな実践が求められる場面です。
第5図「牧牛(ぼくぎゅう)」
自己との調和が進み、心が落ち着いてきます。「なんとかなる」という柔軟な心が生まれ、自己を受け容れる準備が整っているようです。
第6図「騎牛帰家(きぎゅうきか)」
求めていた自己(牛)と自分自身は同じ存在であった。自己と完全に一体化し、体験した者同士しか分からない、言葉にならない、心の静寂を味わいます。自分の一部を無理に変えようとせず、「あなたらしく」そのままの自分を大切にする、最も深い自己受容に至ります。
第7~10図:「自然と溶け合い、他者とともに、いきていく」
第7図「忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)」
迷いの旅を経て、飼い馴らした牛も綱も要らない、牛を探していたことも忘れ、内なる静けさと満足感が生まれています。ありのままの自分だけがいる状態です。
第8図「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」
自分も牛も忘れ、自己の存在すら意識しなくなり、すべての執着・思いが浮かんでも一瞬のうちに消え去ります。心が空でありつつも満たされ、無心であると同時に、広がりをもつ境地を表しています。
第9図 「返本還源(へんぽんげんげん)」
「空」や「無」を超えた先では、森羅万象がありありと目の前に現れ、自然や世界との一体感・調和の感覚を得ます。
「水自茫茫花自紅」- 川は川で果てもなく、花は花で紅く咲うのみ(上田ほか,1992)
とは、川がただ流れ、花がただ咲くように、すべての物事がありのままに存在し、そのままの姿で調和していることです。すべての存在が、自分と別物ではなく、同じ「いのちの流れ」にある意識が芽生えるのです。
第10図 「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」
鄽(てん)とは、町のことです。最終場面では、悟りを得た修行僧は、あえて山にこもらず、町に出て、社会や他者と関わります。自分だけが澄み切った状態になればよいのではなく、現実で、他者とともにともに楽しみ、悲しむ。最後に、慈しみ、利他の心をもって、人とかかわりあう大切さが強調されています。
参考・引用文献
参考・引用順
井上信子ほか (2014). 『対話の調:ゆきめぐる「かかわり」の響き』 新曜社
横山紘一 (1991). 『十牛図・自己発見への旅』 春秋社
上田閑照 (2002). 『十牛図を歩む: 真の自己への道』 大法輪閣
徳力富吉郎 (1985). 『十牛図: 描き方と意味』 日貿出版社
秋月龍珉 (1989). 『十牛図・坐禅儀: 禅宗四郎録上 (禅宗古典選 1)』
上田 閑照, 柳田 聖山 (1992). 『十牛図ー自己の現象学』 筑摩書房
前野隆司 (2013). 『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門 』 講談社
Vol.31「へドニアとユーダイモニア」武蔵野大学ウェルビーイング学部ブログhttps://www.musashino-u.ac.jp/academics/faculty/well-being/columns/wb_column_031.html(2024年11月18日閲覧)
高井範子 (2001)「他者からの受容感と生き方態度に関する研究 : 存在
受容感尺度による検討」大阪大学教育学年報, 6, p. 245-254. https://doi.org/10.18910/10909
横田南嶺 (2020). 『十牛図に学ぶ』 致知出版社